美しく生きる(4)
人間は楽しい体験をすると「ドーパミン」という物質が脳内に放出されるそうです。このドーパミンは、楽しい事が連続して起きた時より、苦しんだ後に楽しい思いをした方が、より沢山放出されるそうです。「苦労が報われる喜び」がひとしおなのは、どなたも思い当たる事があるのではないでしょうか?
私は大学時代ラグビーをやってました。当時はスポーツ系飲料もなかったし、考え自体も古かったので、厳しい練習中でも一切水分を摂るなと言われてました。練習が終わった後に飲む水は、ただの水道水なのに絶品の美味さで、未だにあの味に匹敵する水を飲んでいない気がします。
「欲望を消費するシステム」が横行している社会は、我慢や努力をした結果の快楽を得る場所とは言い難いです。常に適度な快楽が提供され、利用する側も取り敢えず気持ち好いから使っている感じです。嫌な事を避ける為に、楽しい事に目を向けているのかも知れません。これがひどくなると「何が楽しいのか」判らなくなり、集団イジメに走ったり、闇サイトで知り会ったヤツらと共謀して犯罪を犯したりするパターンにも繋がるのではないでしょうか?相手が苦しむ事で、自分が楽しめると捉えているのでしょう。しかしそれは、本来の人間らしい楽しみではないので、行為者側の精神の闇は深まり「負のスパイラル」に陥ち込んで行く気がします。
“パチスロの達人”になった動体視力に長けた青年が、何故その生活を止めようという気になったか、私なりに考えてみました。①周囲の人は負けたり勝ったりを繰り返しているのに、自分だけ勝ち続けるのが申し訳なくなった②勝ち続ける事自体が面白くなくなった。
①に着目すると、彼は“社会性”を考慮したといえます。②に着目すると、自分が得ていた“快楽”はドーパミンの放出量も少ない“有意義”な快楽ではないという事に気付いたのではないでしょうか・・・。
①②を合わせて考慮すると、彼は人間らしく生きる選択をしたといえるかも知れません。
『欲望する脳』で命題となっていた孔子の言葉「七十歳にして自らの欲望の赴くままに生きても倫理的規範を逸脱しなくなった」・・・ここでいう「欲望」は、自らの生きる糧になる欲望でしょう。所謂ドーパミンの大量放出に繋がる欲望=苦労(努力)を伴う欲望=目標達成欲かと思います。
「目標達成欲」というと、何か具体的な目標を設定する必要があるみたいですが、「目標」より「姿勢」の問題ではないかと思います。
よく「人間は何の為に生きるか?」という問い掛けを見聞きします。確かに「○○の為に生きる」と言い切る姿勢も素晴らしいとは思います。しかし私は、自分の性分も含めて「人間はどういう風に生きるべきか?」と考えたいです。もちろん両方の問いはシンクロする部分もありますが、生きる目標を見据える前に(あるいは見据えなくても)生き方を第一義に考えたいという訳です。自分の人生が終盤を迎えた時、充実した人生だったかどうか振り返るのも悪くないですが、それ以前に「今」を充実させて、命がこと切れる瞬間まで「今」を生き続ける方を選びます。その方が、有限な人生を無限に生きる事が出来るのではないかとも思うのです。
それでは「まとめ」として、『欲望する脳』をテキストにあれこれ考えて導き出した「人間はどういう風に生きるべきか?」という自分なりの「答え」を書いてみます。
結論を先に書くと「人間らしく生きる」となります。タイトルに掲げている「美しく生きる」を一皮剥いたものといえるでしょう。
せっかく得た脳科学の知識に絡めて、人間本来の脳機能を存分に活かすという視点からまとめてみます。
①「社会性」を意識する・・・人間が、社会(他人)と関わる事で自分を形成していくという点。重要なのは自分から関わっていくという姿勢でしょう。自分自身の日常が社会の動きに関連していると考えるだけでも違いが出ると思います。自ら社会性を意識しないと、社会に溢れる情報を受け止めるだけの、盲目的な「大衆」になってしまいます。
②ドーパミンをより多く放出する「快楽」を志す点・・・これも結局「これ面白いですよ」と与えられる快楽を消費するだけでは有意義なものにならない、という結論に繋がると思います。自分でアレコレ考えたり、苦労して得た喜びこそ、人間に備えられた本来の喜びといえるのでしょう。
①②合わせて考えますと、大量に送られてくる情報に惑わされず、「自分なりの○○」をベースに取捨選択していく姿勢が一つ。更に惑わされない為には、社会(他人)や諸事象に、イコールの立場で“存在”する事だと思います。上に立って解った気になってもダメだし、下に居ては翻弄されるだけです。
“快楽”を追求する場合も、自分が心底楽しめるものは何なのか自分なりの感性を元に探していく方が、「喜びを堪能する度合い」が深まると思います。それは苦難の後の快楽とは違うんじゃないかと言われるかも知れませんが、表層的な楽しみとは一線を画すと思います。“苦労”や“努力”がついて回るからです。
私は黒人音楽が好きなので、ネット上の友達も同じ傾向の方が多いです。しかし皆さん各々に違うフィーリングをお持ちです。理由は単純明快、人間が違うからです。もし情報として流されて来るものを受けるだけの音楽ファンなら、極めて表層的な皆同じような意見しか持たないでしょう。
又、社会とイコールの立場に立とうとするなら、気持ちに余裕を持つ事が重要です。私のネット友達は皆気持ちに余裕があります。「余裕」は集中力を生みますし、精神的フットワークも身に付きます。落ち着いた上にフットワークが軽いと、更なる快楽を追求できます。そしてドーパミンと共に新たな余裕を手に入れる訳です。
快楽を、与えられるままに消費するだけなら、余裕も持てず、顔の見えない「大衆」として一生を終わってしまうのではないでしょうか?
※まだ色々と書きたい事があるのですが、私の悪い癖で、どうも収拾がつかなくなってきました。一旦ここで話を終えます。また別の機会に纏められたら纏めようと思います。最後に2つの言葉を書いておきます。
マイルス・デイヴィス「問題は道具じゃない。その使い方だ」
ニーチェ「君たちは君たちの感覚でつかんだものを究極まで考え抜くべきだ」
(おわり)
私は大学時代ラグビーをやってました。当時はスポーツ系飲料もなかったし、考え自体も古かったので、厳しい練習中でも一切水分を摂るなと言われてました。練習が終わった後に飲む水は、ただの水道水なのに絶品の美味さで、未だにあの味に匹敵する水を飲んでいない気がします。
「欲望を消費するシステム」が横行している社会は、我慢や努力をした結果の快楽を得る場所とは言い難いです。常に適度な快楽が提供され、利用する側も取り敢えず気持ち好いから使っている感じです。嫌な事を避ける為に、楽しい事に目を向けているのかも知れません。これがひどくなると「何が楽しいのか」判らなくなり、集団イジメに走ったり、闇サイトで知り会ったヤツらと共謀して犯罪を犯したりするパターンにも繋がるのではないでしょうか?相手が苦しむ事で、自分が楽しめると捉えているのでしょう。しかしそれは、本来の人間らしい楽しみではないので、行為者側の精神の闇は深まり「負のスパイラル」に陥ち込んで行く気がします。
“パチスロの達人”になった動体視力に長けた青年が、何故その生活を止めようという気になったか、私なりに考えてみました。①周囲の人は負けたり勝ったりを繰り返しているのに、自分だけ勝ち続けるのが申し訳なくなった②勝ち続ける事自体が面白くなくなった。
①に着目すると、彼は“社会性”を考慮したといえます。②に着目すると、自分が得ていた“快楽”はドーパミンの放出量も少ない“有意義”な快楽ではないという事に気付いたのではないでしょうか・・・。
①②を合わせて考慮すると、彼は人間らしく生きる選択をしたといえるかも知れません。
『欲望する脳』で命題となっていた孔子の言葉「七十歳にして自らの欲望の赴くままに生きても倫理的規範を逸脱しなくなった」・・・ここでいう「欲望」は、自らの生きる糧になる欲望でしょう。所謂ドーパミンの大量放出に繋がる欲望=苦労(努力)を伴う欲望=目標達成欲かと思います。
「目標達成欲」というと、何か具体的な目標を設定する必要があるみたいですが、「目標」より「姿勢」の問題ではないかと思います。
よく「人間は何の為に生きるか?」という問い掛けを見聞きします。確かに「○○の為に生きる」と言い切る姿勢も素晴らしいとは思います。しかし私は、自分の性分も含めて「人間はどういう風に生きるべきか?」と考えたいです。もちろん両方の問いはシンクロする部分もありますが、生きる目標を見据える前に(あるいは見据えなくても)生き方を第一義に考えたいという訳です。自分の人生が終盤を迎えた時、充実した人生だったかどうか振り返るのも悪くないですが、それ以前に「今」を充実させて、命がこと切れる瞬間まで「今」を生き続ける方を選びます。その方が、有限な人生を無限に生きる事が出来るのではないかとも思うのです。
それでは「まとめ」として、『欲望する脳』をテキストにあれこれ考えて導き出した「人間はどういう風に生きるべきか?」という自分なりの「答え」を書いてみます。
結論を先に書くと「人間らしく生きる」となります。タイトルに掲げている「美しく生きる」を一皮剥いたものといえるでしょう。
せっかく得た脳科学の知識に絡めて、人間本来の脳機能を存分に活かすという視点からまとめてみます。
①「社会性」を意識する・・・人間が、社会(他人)と関わる事で自分を形成していくという点。重要なのは自分から関わっていくという姿勢でしょう。自分自身の日常が社会の動きに関連していると考えるだけでも違いが出ると思います。自ら社会性を意識しないと、社会に溢れる情報を受け止めるだけの、盲目的な「大衆」になってしまいます。
②ドーパミンをより多く放出する「快楽」を志す点・・・これも結局「これ面白いですよ」と与えられる快楽を消費するだけでは有意義なものにならない、という結論に繋がると思います。自分でアレコレ考えたり、苦労して得た喜びこそ、人間に備えられた本来の喜びといえるのでしょう。
①②合わせて考えますと、大量に送られてくる情報に惑わされず、「自分なりの○○」をベースに取捨選択していく姿勢が一つ。更に惑わされない為には、社会(他人)や諸事象に、イコールの立場で“存在”する事だと思います。上に立って解った気になってもダメだし、下に居ては翻弄されるだけです。
“快楽”を追求する場合も、自分が心底楽しめるものは何なのか自分なりの感性を元に探していく方が、「喜びを堪能する度合い」が深まると思います。それは苦難の後の快楽とは違うんじゃないかと言われるかも知れませんが、表層的な楽しみとは一線を画すと思います。“苦労”や“努力”がついて回るからです。
私は黒人音楽が好きなので、ネット上の友達も同じ傾向の方が多いです。しかし皆さん各々に違うフィーリングをお持ちです。理由は単純明快、人間が違うからです。もし情報として流されて来るものを受けるだけの音楽ファンなら、極めて表層的な皆同じような意見しか持たないでしょう。
又、社会とイコールの立場に立とうとするなら、気持ちに余裕を持つ事が重要です。私のネット友達は皆気持ちに余裕があります。「余裕」は集中力を生みますし、精神的フットワークも身に付きます。落ち着いた上にフットワークが軽いと、更なる快楽を追求できます。そしてドーパミンと共に新たな余裕を手に入れる訳です。
快楽を、与えられるままに消費するだけなら、余裕も持てず、顔の見えない「大衆」として一生を終わってしまうのではないでしょうか?
※まだ色々と書きたい事があるのですが、私の悪い癖で、どうも収拾がつかなくなってきました。一旦ここで話を終えます。また別の機会に纏められたら纏めようと思います。最後に2つの言葉を書いておきます。
マイルス・デイヴィス「問題は道具じゃない。その使い方だ」
ニーチェ「君たちは君たちの感覚でつかんだものを究極まで考え抜くべきだ」
(おわり)
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