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2009年6月

【試聴記】クリスチャン・キーズ『パーソナル』

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さほど歌唱力に長けている人ではないですが、丁寧に歌っています。しかも、自分に合った音創りをしているので、歌唱力云々はさほど気になりません。試聴コーナーではバラードが絶賛されていましたが(確かに好曲)、私はミディアム・テンポやアップ・テンポの方が気に入りました。彼のスマートな歌い口に合っていると思います。バラードだと丁寧に歌い過ぎるのが却って私にはキツイです。

テンポ良く攻めるか、ラスト4曲(内2曲リミックス)のように、ヒップホップ風にサグな感じで攻めた方が好いように思います。ただ、新しい感覚に近付こうとしている様子も有るので、それには“逆行”する形になるかも・・・。

要するに磐石な部分が今一つ感じられないので、余計な事まで考えてしまうんだろうなあ・・・照準が定まれば面白い存在なのです。才能は十分に感じます。

2006年のデビュー作『デイ・バイ・デイ』と何曲か重なります。

♪サイト
http://www.christiankeyes.com/

♪私の好みに完全には合わないが、興味深いラインナップの<ヴェッカ>レコード。
http://veccarecords.com/artist/Christian.html

♪<ディスク・ユニオン>の解説は流石。
http://diskunion.net/black/ct/detail/58C090414002

Christiankeyes

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【追悼】マイケル・ジャクソン・・・スターに秘められた少年性

私がマイケル・ジャクソンの名前を初めて知ったのは「ベンのテーマ」だったと思います。洋楽を聴き始めていた中学生の頃です。ひたすらチャートの動きを追いかけていた日々で、自分が聴いている曲が黒人か白人かなんぞ全く考えていませんでした。モータウンという言葉は聞き覚えがあっても、それが何を意味するか理解出来ていなかった頃です。

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とにかく、マイケルの歌声の、透明感のある美しさに魅了されました。自分とほぼ同い年(私57年彼58年生まれ)と知り、一層ため息が大きくなったものです。それから約10年後、黒人音楽に夢中になり始めた頃には、マイケルは大きな転換期となる『オフ・ザ・ウォール』(79年)『スリラー』(82年)『バッド』(87年)を発表した頃でした。私はとにかく旧い音源にしか興味がなく、世界的大ヒットの『スリラー』も私にとっては社会現象の一つでしかありませんでした。私の時間軸の中では、その頃聴いていたマイケルは、ジャクソン5のリードヴォーカリストの少年だったのです。

♪あえて92年テディー・ライリー絡みの曲

私はブルースを中心に聴いていたせいか、少年ヴォーカルが苦手です。しかし、マイケルだけは例外で、いつも聴き惚れてしまいます。「ベンのテーマ」でノックアウトされた経験に立ち戻るのかも知れません。しかし、黒人ヴォーカルの魅力が解り始めた耳で聴いても、マイケルの上手さと熱さが、一流のソウル・シンガーの物であると納得出来ました。

“キング・オブ・ポップ”と呼ばれるようになってからは、時代のトレンド的にもメリハリを強調した重いサウンドをバックに歌う事が多かったようです。ダンサーとしての評価も高いので、ひたすら派手なパフォーマンスばかりが、スキャンダルと並んで、印象に残りました(本当はそれだけではないんでしょうけど)。

私が彼の第一の持ち味と思っている“ナチュラル・ファルセット”とでもいえる澄み切ったヴォーカルをゆっくり聴かせるような局面は殆んど無くなったのではないでしょうか?歌声が苦しく感じる時さえ有りました。

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私としては、彼に“永遠の少年”であって欲しかったのかも知れません。しかし、スターの道を歩むなら少年に止まるのは難しいでしょう。それでも、彼の「奇行」といわれるよくいえばナイーヴ、悪く言えば神経質な行動は少年的かも知れません。但し、私が彼に取り戻して欲しかった「少年性」はジャクソン5の快活さでした。何事も、明るいベクトルより暗いベクトルの方がドツボにはまりやすいもの。彼自身も暗いイメージは拭い去りたかったでしょうが、中々叶わなかったようです。今日、日本テレビの朝の番組で、彼の来日時のステージやオフの様子が放送されていましたが、実に明るく活動的・・・やはり彼にとってステージでのファンとの“交感”が少年性を呼び起こす瞬間だったんた゜と思います。もっと遮二無二歌に打ち込めば、自然と明るいベクトルに向かったんじゃないかと思います。

スターで思い付きましたが、もし「○○スター」という称号を彼に与えるとしたら、何が良いでしょう?普通に考えれば「スーパースター」や「アイドルスター」といった所でしょう。しかし、私は敢えて頑固に「ソウルスター」という称号を手向けたいと思います。私にとって彼は、ソウルミュージックの魅力を教えてくれた人物の一人です。深く感謝します。ありがとう、マイケル。あなたの遺産は間違いなく次世代のR&Bに受け継がれていますよ。

♪サイト

♪吉岡正晴さんの記事。功績が要領よくまとめられています

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親バカでいこう!

娘は大学で「スウィング・ジャズ研究会」みたいなサークルに入っています。今日は各音楽サークル合同のコンサートが有ったので観に行ってきました。

まだ一年生なので「1曲しか参加させてもらえない」(テナー・サックス担当)と言ってたので、途中で姿が見えた時いよいよだなと構えておりました。まあ、観たからといってどんな音を出してるか判らんなあと思ってたら、なんと途中でソロに立ちました。げげっ!と思ったものの、一応無難にソロパートを務めたようです。最後のワンブロウがやたらと「ブオ~ッ」とデカかったのが気に入った!「音がデカイ」のは前から指摘されていたようです。

高校時代は吹奏楽部だったのですが、ソリの合わない先輩がいて途中で辞めました。大学に入ったらもう一度やりたいと言ってたので、とりあえずは望み通りにいき、良かったです。ヨメさんとかは人間関係を心配していたんですがそれも大丈夫なようです。

親というのは、子供が大きくなっていっぱしの事ができるのを見ても、なぜか世話を焼いていた頃のイメージが抜けきれないとつくづく思います。吹いている様子を観ると何とはなしに心配なんですよね。娘がソロパートを吹くと前もって言わなかったのは、恥ずかしいのもあったでしょうが、やたらと心配されると警戒したのかも知れませんね。

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【試聴記】ライオネル・リッチー『ジャスト・ゴー』

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総体的には好いアルバムだと思います。ニーヨ、スターゲイト、トリッキー・スチュワート、エイコン、ザ・ドリーム、デイヴィッド・フォスターetcの売れっ子制作陣が参加しています。

前作も評判は良かったようです。私は、コモドアーズ時代もソロ時代もライオネルを聴き込んではいないので、前作を含め正確には比較出来ませんが、もうちょっと甘い声だったような気がします。ハスキーヴォイスも、セクシーというより枯れた印象が先立ちます。曲調の所為か歳の所為か・・・。

http://www.youtube.com/watch?v=CCCONFXdib0

http://www.youtube.com/watch?v=v5ruDqdZn_s&feature=related

アルバムの水準は高いと思いますし、歌の上手さも伝わるのですが、シックリ来ない部分もあります。私個人の感覚なのですが、やはり、ブラックネスの濃淡を考えてしまうのです。

順番に見てみましょう。1~4曲が特に違和感有り。いや、違和感が有ればまだマシかも知れません。「平板」な感じなのです。歌のみを聴いている感覚です。歌が上手いから聴けている感じ。2曲目・3曲目はエイコン絡みでグルーヴィーなのですが、歌とトラックが“乖離”している印象があります。

http://www.youtube.com/watch?v=ts1twav4gM0

しかし5曲目は黒いです。私的にはこの曲が一番好きかなぁ・・・自然に身体が動きます。余り目立たない曲かも知れませんが、黒いフレーズのリフレインにヴォーカルがカッチリと乗っています。シングルカットされた6曲目は無難過ぎます。

そして、ニーヨ&スターゲイトの8曲目は流石。曲の好さに耳がいってしまいます。ここから先のバラード群はまあまあ気に入りました。テンダーだけど熱が入ってます。

結局、音もシッカリして歌の上手さも感じるのに気持ちに入ってこないというのは、所詮私の好みの歌手ではないという事でしょう。

http://www.lionelrichie.com/

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【創作】PEACE(1)

マーヴィンは、公園の茂みの中から音も立てずに現れた。古いレンガ敷きの舗道を、目的地に向かって歩き始める。足を運ぶ際に上半身をフワッと揺らすさまは、落ち着き払った競争馬のようだった。

マーヴィンは夕暮れ時が好きだった。これからが自分の時間であり、密かな愉しみへの序章として、青と黒が混じり合う空の下、人工的な灯に街が照らされ始める時間帯は、胸踊らせるに充分だった。

馴染みの店の前に着く。ピンクと水色のネオン灯が重なった状態で、クネクネと「Silky Soul」という文字を形作り、店の上部に収まっていた。店の全体はさほど大きくなく、壁の茶色い色調は、薄暗い周囲に同化しはじめている。故に、ネオンサインが際立ち、訪れる者にはネオンの彩りだけが記憶に残っていることが多い。

場所的にも、他の飲食街の連なりから少し外れたところに有るので、余計孤高に佇む印象となっている。

「よぉ、マーヴィン!」背の高い黒人青年が声を掛けてきた。青いツナギを着ているが、さほど汚れていない。ここにも青と黒だ、とマーヴィンが思ったかどうかは微妙なところだ。

ニャア、とマーヴィンなりに心を込めて応える。なにせ自分の名付け親だ。とりあえずは敬意を表そう。

青年は、野良猫とは思えない銀灰色の艶やかな毛並みを持ったマーヴィンの喉元を、曲げた二本の指でさすった。マーヴィンは気持ち好さそうに目をつぶる。お決まりの挨拶だ。マーヴィンがもし人間の言葉を喋れたなら、「よぉ、ピース、調子はどうだい!」ぐらいの事は言っただろう。

しかし、青年ピースに意が通じたのか、「調子はマアマアってとこだな」との返事が返ってきた。そして彼は、ニコニコしながら「シルキー・ソウル」のドアに向かって行った。

マーヴィンは店の前に出来た水溜まりに己の顔を映し眺めていた。ピースが開けたドアからトミー・ヤングの歌声が洩れ聞こえてきたのを機に顔を上げ、次の目的地へと悠々と歩を進め始めた。

(つづく)

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●人間の“記憶”のメカニズムは、パソコンにデータを保存するように、個別毎に蓄積されていくものではないらしい。新しく憶えた事柄は、潜在している分も含め、既に記憶されている事柄に連関するとの事。憶えていくものが、澱のように重なり合い混じり合い、“意識”にこびり着くイメージだろうか。何かに“対応”する場合、通常は“意識”の中から必要な“記憶”を導き出して構成し直しているのだろう。また、夜見る夢が、意味を成さない事が多いのは「記憶の糸を辿る」際に、色んな“記憶”を一緒に引き摺り出しているからだろうか・・・。

●激流渦巻く大河。向こう岸は霧の彼方。高々と架かる橋は所々壊れ、不規則に揺れている。雨風は執拗にまとわりつき、黒雲は悪魔のような不気味さ。オセロゲームの黒い駒に見える大きなクッションが、橋の袂に何個も浮いている。波の影響は受けていない。時々、どこからともなく人がクッションに落ちる。或いは人の姿は見えないものの、転落していく声が聞こえる。前触れもなく、雨と涙に濡れた悲痛な男の顔が大映しで近付く。ターザンのように、天から伸びた長い紐に振り子のようにぶら下がって宙を飛ぶ者もいる。私はどうしても向こう岸に渡らなければならない。歩を進める度に橋の形状が変わる。鉄骨だけになったり、原始的な吊り橋に変わったり、足元が透明なプラスティックで、激流を目の当たりに感じたり・・共通しているのは「壊れかけていてよく揺れる」という点だ。途中、橋が分断されている箇所に差しかかる。男が一人脇にいて、ニタニタしながら先を促す。私は滑る足元を気にしながら思いっ切りジャンプする。そこで終わる。

●畳の目が見える低い位置に浮遊している。両手は体側に付け足は伸ばしている。うつ伏せだ。そのままの姿勢でゆったりと移動している。低いテーブルの下も通過する。部屋は狭い。せいぜい四畳半だ。畳とテーブルしか認識できない。時々身体をクネクネさせて、低く浮遊し続けていると、自分が巨大なナマズになったような気がする。誰にも真似出来ないだろうという優越感と、閉じられた空間をウロチョロしている絶望感が交互に訪れる・・・。

●野球少年が「プロ野球選手になりたい」という“夢”を持っていたとする。夢が叶う人もいれば叶わない人もいる。夢が叶えば幸せで叶わなければ不幸かというと、一慨には言えない。夢が叶う事より、夢を追い掛ける事の方が意味が有り、充実感も得られるような気がする。また、「プロ野球選手になりたい」というのが“目標”になってしまうと、気持ちが切羽詰まり、達成出来なかった時の落胆が大きくならないだろうか?実際に野球をやっている者からすれば、夢であり目標であるのかも知れないが、先ず“夢”として自分の気持ちを向かわせた方が、余裕が出てくる(楽しめる)気がする。何事においても結果が全てではなく、前に進む気持ちが重要なのだ。夜見る夢にしても、危険な橋やナマズ化した自分が意味するものを分析しても面白いかも知れないが、夢自体を単純に面白がる姿勢も必要だと思う。

なぜこんな事を書いたかというと、「達成しなければならない目標」と、「憧れとしての夢」と、「現実的意味を持たない睡眠時の夢のようなもの」がゴッチャになっているのが現代社会だと思ったからだ。違う角度からいうと、現実と非現実の区別が付かなくなっている。もちろん最悪なのは、非現実を現実の中に取り込んでしまうパターン。片想いの相手の女性が、「自分が想っている」という事だけで「自分の女」になってしまう。“片想い”が本来持つ人情の機微が存在しなくなっているのだ。

自分の人生において、見たり触ったり出来るものだけが現実だとは私も思っていない。人は皆、心の中に、表には出さない“想い”を持っている。それを含めて現実だと思う。通常はその区別は誰にでも付いているのだが、“想い”の部分も「確かに存在する」と思ってしまう者がいるのだろう。

夢の素晴らしさを知って現実的に生きるか、夢はこの世に存在せず、自分の考えそのものが現実だと思うか・・・。

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映画『かもめ食堂』

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私には「好きなタイプの女性」というのがいません。実際に出会ったり、テレビで観たりした時点で、好意を持つかどうかで決まります。良くいえば“インスピレイション”ですね。

ある意味「気が多い」のかも知れませんが、そんな私がデビュー当時から好きな女優さんが、小林聡美です。もしかしたら自分で意識出来ていない「理想のタイプ」なのかも知れません。ある程度の距離を置きながらも、ずっと想い続けている人ではあります。

06年に公開された『かもめ食堂』(監督・荻上直子)。当時はネット上でも評判が良かったのを憶えています。

遅ればせながら観ましたが、この映画は小林聡美の魅力を再認識させる為に創られた作品ではないのかと思うほど、引き付けられました。

フィンランドという、日本には馴染みが薄い“異国”で、若い日本人女性が一人で食堂を営んでいます。当初はサッパリ客が入らないんですが、女性は困った風でもなく、“自然体”で日々過ごしています。日本オタクの青年や、衝動的に日本を飛び出して来た女性(片桐はいり)、荷物が届かず途方に暮れている女性(もたいまさこ)等々、個性的な人物に囲まれながらも本人は至って落ち着いています。

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料理を淡々と作るシーン、ゆったりとプールで泳ぐシーン、合気道を取り入れたフィットネスのような運動をするシーン・・・カメラは“自然体”で、小林聡美演じる主人公を映し出します。「異国の中の日本人」感を片桐はいりがよく出しており、その対比で一層小林聡美の自然体が際立ちます。

やがて自然体の彼女の気持ちが通じたのか、食堂は“自然と”客が増えていきます。フィンランド料理でもなく、日本料理でもなく、彼女が創り出す“自然な”メニューが“自然に”受け入れられていくのです。

映画を観ている側も、何も構えることなく“自然に”感動を受け止められます。「理想」を抱いて現実を生きるのもイイかも知れませんが、現実に出会う人たちと、現実的に思いを通い合わせる方が、私は気持ち的に豊かになる気がします。少なくとも落ち着きます。そんな感想を抱いた映画でした。

やはり小林聡美は私の「理想の女性」ではないね。彼女はそういう枠に止まる女性ではないです。

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シカゴ・バウンド

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●ジミー・ロジャース『ルデラ』(90年)

ライブ・ハウスも経営しているブルース・レーベルの<アントンズ>発。私が持っているのは<Pヴァイン>を経由した日本盤。因みに邦題は『シカゴ・バウンド』です。

スタジオ録音とライブ録音を混ぜていますが、明確な違いは感じられず、統一感はあります。プロデュースとハープ演奏をファビュラス・サンダーバーズのキム・ウィルソン(金日成じゃないよ)が担当。パイントップ・パーキンスやヒューバート・サムリンといった“職人”も参加しています。

全体に、緊張感と勢いの有る素晴らしい演奏ではあります。しかし、シカゴ黄金期の、くすんだような切羽詰まったような独特の空気感は感じられません。時代が違うのもあるでしょうが、メンバー個々の絡みが生み出すゾクゾクする瞬間が少ないんですよね・・・勿論、必ずシカゴに戻らなきゃいけない訳じゃないですが、ついつい比較してしまいます。“ブルースネス”というモノサシで測るなら、やはり“黄金期”の名に相応しい時代であったと痛感します。

パイントップ・パーキンスは味の有る演奏が時々聴こえますが、サムリンは余り存在感を感じませんでした。一番気になったのは、キム・ウィルソン。ちょっと“吹き過ぎ”な感じです。ライナーで小出斉さんが、サンダーバーズの時の方が抑制されているみたいな事を書かれてたので、普段より躁状態だったのかも知れません。しかし、邪魔というより、その闊達さが微笑ましくもあり、気になってしまうといった所です。

ジミー・ロジャースは流石で、特にヴォーカルはデルタの薫りを感じ、マディのような逞しさと哀切感に、聴き惚れてしまいます。つい、ギター・プレイに耳が向きがちですが、ヴォーカルからも味わい深さは滲み出ています。

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ジミーは本盤の8年後に、シカゴ黄金期を再現したといわれるアルバムを発表しています(未聴)。黄金期では、リーダー作でも脇役に回っても定評の有ったジミーだけに、シカゴ・サウンドが体内に染み込んでいるのは間違いないようです。

http://www.vh1.com/artists/az/rogers_jimmy/76083/album.jhtml

http://jp.youtube.com/watch?v=w3zApJck_10

http://www.vh1.com/artists/az/rogers_jimmy/109594/album.jhtml

※ファビュラス・サンダーバーズは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの兄貴であるジミー・ヴォーンがギターを弾いている白人ブルース・バンドです。私はレイ・ヴォーンよりいなたい兄ちゃんのプレイが好きで、バンド自体も、アルバムは持ってないんですが、割りとイケるなあと思った記憶が有ります。結構ダウンホームです。

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夏目漱石著『文鳥・夢十夜』

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解説に「小品」とあるように、短編小説とも随筆とも色合いの違う作品群です。作者の思いや考えがストレートに近い感覚で表現されていて、漱石という人物に近付いた気にさえなります。

映画化もされている「夢十夜」は、実際に見た夢を軸に構成されています。幻想的でホラー感覚を味わえる部分も有りますが、基本的に、昔話や伝説・故事の類に通じるような、土俗的な雰囲気に満ちています。“夢判断”という観点から、人物漱石の心理学的分析も可能なのでしょうが、私の場合それよりも、物語性の深さに単純に引き込まれました。

小学校高学年の頃から本を読むのは好きでしたが、所謂“文豪”と呼ばれる作家のものは余り読んでいません。今回漱石作品に触れ、文章表現の緻密さと、そこから立ち昇ってくるイマジネーションの奥深さに圧倒されるばかりでした。

漱石が大病を患った際の、身体の変調の様子や、病床から見える限られた景色、さまざまな物事に思いを寄せる様子を描いた「思い出す事など」も徹底した表現力に、多大な感情移入をしてしまいます。読んでいて自分が床に臥せているような気になりました。

優れたシンガーが、メロディーの美しさの前に、自らの声質や歌唱力の素晴らしさを印象付けているようなものです。文章自体に味わいとパワーを感じるのです。

たまには文豪も好いものです。

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デイヴィッド・リス著『珈琲相場師』

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舞台は16世紀半ばのオランダ、アムステルダム。当時のヨーロッパでも商業が発達した都市の一つです。主人公はポルトガル系ユダヤ人のミゲル・リエンゾ。彼はアムステルダムの商品取引所で相場師として働いています。

ユダヤ人は、ポルトガルでは“隠れ教徒”として暮らさねばならなかったのですが、文化的にも開放的なアムステルダムでは自由に行動できていました。しかし取引所では、マアマドという団体が“ユダヤ人保護”を名目に、オランダ人との取引を禁止するなど厳しい規制を掛け、悪質とマアマドが“判断”した場合は“破門”の処置も下されるような絶対的権力を保持していました。

自由人のミゲルは、相場師として名を上げる為にはオランダ人との取引も辞さないし、数々のマアマド・ルールを敢えて無視していたのですが、マアマドに睨まれるのは避けたいという意識は有りました。

そんな彼の元に、友人の、裕福な未亡人・ヘールトロイドが儲け話を持ち掛けます。オランダでは無名だった「コーヒー」を取引材料にしようというものです。今まで味わった事のない魅惑的な飲み物に可能性を感じ、彼は綿密な計画を立て、不遇な現状から抜け出そうとします。

当然のごとく邪魔が入ります。マアマドの役員の一人で、ミゲルに深い恨みを持つソロモン・パリドが最大の敵なのですが、話が佳境に入ると誰が味方で誰が敵か判らなくなります。

登場人物も個性的。ミゲルを居候させているものの、幼い頃から彼に反感を抱いていた弟ダニエル。その妻ハナは、自分を一人前に扱ってくれるミゲルに好意を持っています。これに小悪魔的メイド、アナヒャが絡みます。

ホームレス同様に落ちぶれ、ミゲルに付きまとう元友人のヨアヒム。ヘールトロイドのボディーガード、ヘンドリック等も重要な役どころです。

マアマドから破門され、悪党相手の高利貸しに身をやつすアルフォンゾ・アルフェロンダなる人物。彼の回想録が、話の本筋とは別に挿入されています。最初は裏事情の説明に終始していましたが、追々存在感を発揮していきます。
取引の成否はもちろんの事、敵味方の入り交じりよう、意外な伏線等々最後の最後まで先が読めないような展開です。

スッキリ大団円とならないところは、丁度コーヒーの苦味や酸味に共通するような独特の風味を感じました。

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岡本太郎著『美の呪力』

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岡本太郎さんの“キャッチフレーズ”といえば「芸術は爆発だ!」となるでしょう(時代的には古い話)。

このフレーズに於ける「爆発」は、岡本さんのキャラクターからすると、激しい情熱の迸りを連想させます。しかし、それでは表面をなぞっただけ。本書を読んで、「爆発」という言葉の奥深さに、気付かされました。

本書では「爆発」の代わりに「怒り」という言葉が使われています。「怒り」は、腹が立つといった感情的な意味合いを超えて、人間に必要な「活力」に近いニュアンスで提示されているようです。

重要なのは、「怒り」が「透明」であること。混じりけがなく真っ直ぐなベクトルである事が要求されます。

「怒り」を基本(の一つ)として、本書の全編を通し、プリミティヴで、人間臭い行動や意識や生活から産まれた「芸術」に焦点が当てられています。いわゆる、美術館の展示品として鑑賞する類いの物ばかりではありません。生活や宗教上のモニュメントや、武具等も含まれます。しかも、事例は世界中から多岐にわたり取り上げられ、好奇心はたっぷり刺激されます。

美術に限らず、音楽や文学、その他の「創作物」は全て人間が創っています。受け止める側も人間。創作活動には一定の“センス”が必要なので、鑑賞者と交感しにくい部分もあり、「芸術は難しい」と思いがちです。しかし、本書を読み進めると、人間が本来持っている感情と理性のバランスや、崇高なる自然との関わりから「芸術」は生まれるべきで、人間らしい人間として、ピュアな気持ちで受け止める事が出来るものである・・・と岡本さんは主張されているような気がします(これはあくまで私の推測)。

しがらみだらけの世の中で、自分の気持ちを丸裸にするのは難しい事です。しかし考えてみれば「芸術家」と呼ばれる人々は、人間性からして丸裸的かも知れないですね。それは「特別な才能」なのかも知れませんが、一般の人も同じ人間である以上、丸裸を意識すれば多少なりとも“琴線”に触れ得るものだと思うのです。

『美の呪力』の中で、岡本さんが展開している理論(話)は、芸術作品と鑑賞者間のヒューマニティーの“交感”に止まりません。もっとスケールが大きく、もっと緻密です。

タイムマシンに乗って時空を超えたり、ミクロな存在になって地を這ったりすると同時に、思想的トリップも味わえる“芸術的”一冊でした。具体性と抽象性がメビウスの輪を構成しているイメージも思い浮かびました。だから、説得力もあり、空想的でもあるのです。

筒井康隆さんの言葉を思い出しました。「リアリズムを徹底したのがシュールリアリズムである」。そういえば『美の呪力』自体がシュールリアリズムに彩られているのに気が付きます。つまり、岡本太郎さんの物の考え方からしてシュールなんでしょう。シュールリアリズムは決して難しいものではなく、自分の周囲にあるものや、考えを正攻法と自らの感覚で突き詰めていくことなんでしょうね。

http://www.shinchosha.co.jp/book/134622/

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