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●人間の“記憶”のメカニズムは、パソコンにデータを保存するように、個別毎に蓄積されていくものではないらしい。新しく憶えた事柄は、潜在している分も含め、既に記憶されている事柄に連関するとの事。憶えていくものが、澱のように重なり合い混じり合い、“意識”にこびり着くイメージだろうか。何かに“対応”する場合、通常は“意識”の中から必要な“記憶”を導き出して構成し直しているのだろう。また、夜見る夢が、意味を成さない事が多いのは「記憶の糸を辿る」際に、色んな“記憶”を一緒に引き摺り出しているからだろうか・・・。

●激流渦巻く大河。向こう岸は霧の彼方。高々と架かる橋は所々壊れ、不規則に揺れている。雨風は執拗にまとわりつき、黒雲は悪魔のような不気味さ。オセロゲームの黒い駒に見える大きなクッションが、橋の袂に何個も浮いている。波の影響は受けていない。時々、どこからともなく人がクッションに落ちる。或いは人の姿は見えないものの、転落していく声が聞こえる。前触れもなく、雨と涙に濡れた悲痛な男の顔が大映しで近付く。ターザンのように、天から伸びた長い紐に振り子のようにぶら下がって宙を飛ぶ者もいる。私はどうしても向こう岸に渡らなければならない。歩を進める度に橋の形状が変わる。鉄骨だけになったり、原始的な吊り橋に変わったり、足元が透明なプラスティックで、激流を目の当たりに感じたり・・共通しているのは「壊れかけていてよく揺れる」という点だ。途中、橋が分断されている箇所に差しかかる。男が一人脇にいて、ニタニタしながら先を促す。私は滑る足元を気にしながら思いっ切りジャンプする。そこで終わる。

●畳の目が見える低い位置に浮遊している。両手は体側に付け足は伸ばしている。うつ伏せだ。そのままの姿勢でゆったりと移動している。低いテーブルの下も通過する。部屋は狭い。せいぜい四畳半だ。畳とテーブルしか認識できない。時々身体をクネクネさせて、低く浮遊し続けていると、自分が巨大なナマズになったような気がする。誰にも真似出来ないだろうという優越感と、閉じられた空間をウロチョロしている絶望感が交互に訪れる・・・。

●野球少年が「プロ野球選手になりたい」という“夢”を持っていたとする。夢が叶う人もいれば叶わない人もいる。夢が叶えば幸せで叶わなければ不幸かというと、一慨には言えない。夢が叶う事より、夢を追い掛ける事の方が意味が有り、充実感も得られるような気がする。また、「プロ野球選手になりたい」というのが“目標”になってしまうと、気持ちが切羽詰まり、達成出来なかった時の落胆が大きくならないだろうか?実際に野球をやっている者からすれば、夢であり目標であるのかも知れないが、先ず“夢”として自分の気持ちを向かわせた方が、余裕が出てくる(楽しめる)気がする。何事においても結果が全てではなく、前に進む気持ちが重要なのだ。夜見る夢にしても、危険な橋やナマズ化した自分が意味するものを分析しても面白いかも知れないが、夢自体を単純に面白がる姿勢も必要だと思う。

なぜこんな事を書いたかというと、「達成しなければならない目標」と、「憧れとしての夢」と、「現実的意味を持たない睡眠時の夢のようなもの」がゴッチャになっているのが現代社会だと思ったからだ。違う角度からいうと、現実と非現実の区別が付かなくなっている。もちろん最悪なのは、非現実を現実の中に取り込んでしまうパターン。片想いの相手の女性が、「自分が想っている」という事だけで「自分の女」になってしまう。“片想い”が本来持つ人情の機微が存在しなくなっているのだ。

自分の人生において、見たり触ったり出来るものだけが現実だとは私も思っていない。人は皆、心の中に、表には出さない“想い”を持っている。それを含めて現実だと思う。通常はその区別は誰にでも付いているのだが、“想い”の部分も「確かに存在する」と思ってしまう者がいるのだろう。

夢の素晴らしさを知って現実的に生きるか、夢はこの世に存在せず、自分の考えそのものが現実だと思うか・・・。

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