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パワースポット

娘が○○神社はパワースポットだと言う。元々そういう神聖な場所は全てパワースポットじゃないかとも思う・・・。

子供の頃、実家の近くの神社は遊び場だった。本殿の正面左右には天狗と河童の大きなお面が掛けられ、子供の目には大きな存在感を放っていた。本殿の奥はどんな様子だったか記憶にないが、間違ってもそこに上がり込むヤツは居ない。子供ながらに“重要な場所”である事が判っていたのだと思う。

本殿に上がる手前には、三角ベースは十分にやれる広さの敷地が有った。ここには紙芝居も来たし、夏は、夜市や映画上映も成されていた。町内のコミュニケーションスペースでも有ったのだろう。

成人してからこの神社を訪れた時、敷地の部分は神社訪問者の駐車場&月極駐車場になっていた。キャッチボールが何とか出来るぐらい。無理してやるような雰囲気でもない。天狗と河童を含めた本殿の様子は昔ながらだったが、隣接した社殿では、グッズ感覚のお守りが売られたりしていた。

思い出にすがりつく積りはないが、なるほどこの様相だと、神社がパワースポットで有る事を改めて言う必要があるのかも知れない。ここに通ったとしても、私らがガキの頃に感じた神聖なるものへの(無)意識とは違う感覚を受けるのではないだろうか・・・。

ところで、パワースポットという言葉の正確な定義は知らないが、個人的解釈ではパワーを貰う場所ではなく、自分が本来持っているパワーを高める場所ではないかと思う。同じ様で微妙に違う。後者の方が能動的だ。「家内安全」や「学業成就」を達成するのはやはり本人なのだ。

姿勢が能動的だと人生のサイクルは好回転する。人によっては心が折れそうな事でも乗り越える回転力が得られる。日常的にパワーを生産出来れば良いが、人間はそこまで逞しくない。自分の人生を能動的にする手段の一つが祈りかも知れない。そして祈りは自然な思いから成された方がピュアで力強いと思う。取って付けたような祈りは空疎な儀式的行為である。

神様の存在を信じる信じないは又別の話で、敬うべき(とされている)場所を敬う気持ちが有れば十分なのだと思う。天(そして他の全てのもの)に唾するような行為をやっていては所詮人間的には高まらないのだ。

絶対的存在に対する異常な崇拝も、又気持ちが悪い。人間、動物、自然、その他の存在(或いは非存在)に対して、同じように接するのが私的には納得出来る姿勢だ。パワーの源は、感情の豊かさと純粋な眼差しだと思うから。

♪Zhané "Sending My Love"
http://www.youtube.com/watch?v=VM4kEtvfcPw

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