映画『悪人』
現代社会の閉塞感については色々な所で耳にする。簡単に言えば煮詰まってる状態かと思う。社会が人間で構成されている以上、人間一人一人が煮詰まっているとも言える。人間煮詰まると、考えは悪い方向に進む。自分自身が意識できていれば乗り越えようとするが、自分で分からない場合、煮詰まっていると思わなくなり、“悪感情”がその人間を支配する気がする。他人のステイタスを自分のステイタスと勘違いし、ステイタスのない人間を差別し小馬鹿にする。友達ではなく取り巻きを好む。自分が主役でなければ気がすまない、というかそれが当然だと思うから。たとえ相手が自分の言動で死に到っても、何の罪悪感も感じない。
タイトルの『悪人』は「悪感情に支配された人間」の事ではないかと思う。映画の中で起こる事件の犯人は、少し違う。先に述べた人物像を「積極的な悪感情」と名付けるなら、犯人は「消極的な悪感情」といえるかも知れない。自分が煮詰まっているのが分かり、どうしようも出来ずにイライラを溜めながら日々の生活を送っているタイプだ。一般的には遊び友達を求める「出会い系」に人間的繋がりを託す。妻夫木聡演じる犯人と「出会う」女性が深津絵理で、こちらも「消極的な悪感情」の持ち主である。
主役の二人の話は最後に持ってくるとして、映画の中では「悪感情」を表現する為に世代の違う脇役を登場させている。柄本明演じる中年世代(被害者女性の父)と樹木希林演じる老年世代(犯人を育ててきた祖母)。柄本は、犯罪のキッカケとなった悪感情の塊である大学生に自ら復讐しようと近付き、悪感情に対する呪文のように「正論」を吐く。このセリフが映画が主張したかった事の一つだと思う。それにしては、ここまでハッキリと言わせては“表現”としてどうなのかとも思ったが、ハッキリ強烈に言わなければ現代社会にはびこる悪感情には訴えないのだなと思い直した。
樹木希林はコツコツと生きてきた漁村の老婆で、ある日入院中の夫の元に出かけるため外出する。家の周りに屯するマスコミ陣の取材攻勢にどうする事もできず、バスの運転手の助けを得て、やっとの思いで乗り込む。座席に着いた彼女は静かに息を整えようとする。その微妙な動揺振りが゛抜群の演技力で表現される。老年世代が社会の悪感情に対した時、彼ら彼女らは自分の気持ちの中で動揺するしかないのだという思った。
さて、主役の二人、光る演技力については言うまでもなし。彼らはピュアな気持ちで出会い、愛し合う。忌野清志郎は「愛し合ってるかい?」とステージから呼びかけたが、実は人間にとって愛すること、愛されることより、愛し合うことは難しい。しかしそこを目ざすのは自然な行為だと思う。目指さなくてもそうあるべきだ。もちろん、男女間の話だけではない。悪感情に支配されては「愛し合う」ことは不可能だ。前提として必要なピュアさや真剣な気持ちは、彼らとは最も遠い。愛も自分の都合でしか解釈しないだろう。
犯罪者である青年に連れ添う行為は一般常識から見ると間違っている。説得して罪を拭わせるべきだ。しかし、彼女の方から逃走を呼びかける。愛し合うことが彼女達の中では一般常識を超えたのだ。その為「もっと早く出会えていれば」と嘆く。嘆きながらも愛し合う。やがて現実社会は二人に関わってくる。日常に戻った深津絵理の最後のセリフとラストシーンは、愛し合うことを知って人間的に深みを増した姿を思わせてくれるし、切なさを背景にしながらも、「悪人」から「悪」が抜け落ちていくのが見えるような美しさを心に残した。
http://www.akunin.jp/index.html
タイトルの『悪人』は「悪感情に支配された人間」の事ではないかと思う。映画の中で起こる事件の犯人は、少し違う。先に述べた人物像を「積極的な悪感情」と名付けるなら、犯人は「消極的な悪感情」といえるかも知れない。自分が煮詰まっているのが分かり、どうしようも出来ずにイライラを溜めながら日々の生活を送っているタイプだ。一般的には遊び友達を求める「出会い系」に人間的繋がりを託す。妻夫木聡演じる犯人と「出会う」女性が深津絵理で、こちらも「消極的な悪感情」の持ち主である。
主役の二人の話は最後に持ってくるとして、映画の中では「悪感情」を表現する為に世代の違う脇役を登場させている。柄本明演じる中年世代(被害者女性の父)と樹木希林演じる老年世代(犯人を育ててきた祖母)。柄本は、犯罪のキッカケとなった悪感情の塊である大学生に自ら復讐しようと近付き、悪感情に対する呪文のように「正論」を吐く。このセリフが映画が主張したかった事の一つだと思う。それにしては、ここまでハッキリと言わせては“表現”としてどうなのかとも思ったが、ハッキリ強烈に言わなければ現代社会にはびこる悪感情には訴えないのだなと思い直した。
樹木希林はコツコツと生きてきた漁村の老婆で、ある日入院中の夫の元に出かけるため外出する。家の周りに屯するマスコミ陣の取材攻勢にどうする事もできず、バスの運転手の助けを得て、やっとの思いで乗り込む。座席に着いた彼女は静かに息を整えようとする。その微妙な動揺振りが゛抜群の演技力で表現される。老年世代が社会の悪感情に対した時、彼ら彼女らは自分の気持ちの中で動揺するしかないのだという思った。
さて、主役の二人、光る演技力については言うまでもなし。彼らはピュアな気持ちで出会い、愛し合う。忌野清志郎は「愛し合ってるかい?」とステージから呼びかけたが、実は人間にとって愛すること、愛されることより、愛し合うことは難しい。しかしそこを目ざすのは自然な行為だと思う。目指さなくてもそうあるべきだ。もちろん、男女間の話だけではない。悪感情に支配されては「愛し合う」ことは不可能だ。前提として必要なピュアさや真剣な気持ちは、彼らとは最も遠い。愛も自分の都合でしか解釈しないだろう。
犯罪者である青年に連れ添う行為は一般常識から見ると間違っている。説得して罪を拭わせるべきだ。しかし、彼女の方から逃走を呼びかける。愛し合うことが彼女達の中では一般常識を超えたのだ。その為「もっと早く出会えていれば」と嘆く。嘆きながらも愛し合う。やがて現実社会は二人に関わってくる。日常に戻った深津絵理の最後のセリフとラストシーンは、愛し合うことを知って人間的に深みを増した姿を思わせてくれるし、切なさを背景にしながらも、「悪人」から「悪」が抜け落ちていくのが見えるような美しさを心に残した。
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