【創作】PEACE(6)
♪前回まで
http://hajibura-se.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-e0...
店内の、彼女の指定席にローラは座っていた。昼間と違って濃緑色のドレスだ。細身の女性は、昼間と同じベージュのスーツの背中を見せていた。ピースにローラが挨拶すると、振り向いて、ソツのない笑顔で会釈した。
「こちらはルース。メンフィスからのお客様。彼はピース、謎の流れ者よ」
「えっ、俺はそんな風に見られてたのか」きれいな歯を見せて微笑むルースと、とぼけ顔のローラを交互に見ながら、ピースは並んで座った。
「ルースは私をスカウトに来たのよ」
「スカウト?」
ルースがにこやかに補足した。「そうなの。私はメンフィスのゴスペル・クワイアに所属してるんだけど、ローラにコーチして欲しくて頼みに来たのよ」
「へ~え、話はまとまったのかい?」
ルースは困ったような笑顔を見せた。「いいえ」
ローラは視線を外し、バーボンのグラスを傾けた。微かに音を立てる氷が、妙な間を作る。グラスを置いた後、黙ったまま、カウンターの木目をなぞり始めた。ふと、ローラの携帯が鳴った。言葉少なに答えると、携帯を畳み、カウンターに凭れかかるようにして、厨房の中のジョーを呼んだ。慌ててはいないが、表情はやや曇っていた。
ジョーが出てくると、母親の具合が悪いので帰ると言う。ルースにも謝っていた。ルースは今日泊まるつもりだったので、もう少し店に残ることにした。
「諦めた方が良いかもな」ローラが帰った後、ジョーがポツリと言った。「俺とローラは一緒に音楽をやってた。彼女の歌いたくない気持ちは解るんだ。それに今のは芝居のような気もするな。断るんならきちんと断るべきだとは俺も思う。でも彼女の性格だ。相手の方から気が付いて欲しい、身を引いて欲しいと思ってるんだ」
ローラの柔らかい物腰の陰に、強固な意志が潜んでいるのは、ルースも気付いていた。でも、そういう人物こそ、一度理解してくれれば絆は強いはずという思いもあった。
日頃はあまり飲まないが、ローラに合わせて注文したバーボンのグラスに口を付け、少し傾けた。そして、ふたりに聞かせるというより、自分の行動を振り返る事で、もう一度よく考えてみようという思いで、スカウト行為のキッカケを話し始めた。
「ある日ラジオからローラの歌声が聴こえてきたの。ソウル仕立てだったけど、ゴスペルシンガーとしての力量が伝わってきたわ。いえいえ、力量がどうこうなんて失礼ね。圧倒されるばかりだったわ。この人に目の前で歌って欲しい、ゴスペルの何たるかを教えて欲しいと思ったのよ」
ジョーが、渋面を崩さずに、食器棚の中ほどにある引き出しから、よれよれの小さな紙袋を取り出した。中身はドーナツ盤だった。点々と染みの付いた、茶色いカバー紙に収まっていた。
「奇特なヤツもいたもんだ。俺たちの曲をリクエストするなんて」
ピースとルースの間に、レコードは置かれた。カバー紙の中央の、円形の穴からレーベル部分が見えている。全体は黄色地で、黒く細い線の筆記体で「Angel」と書かれていた。「n」の字に天使が座り、その羽が「A」の字の横棒になっていた。どこかとぼけた表情の天使は、ラッパを吹いており、音符が3個ほど漂っていた。
タイトルは「レディー・エンジェル」。歌手名はローラ・ジャクソン。レコード番号がAGL-001。派手な表舞台に出る事のなかった、エンジェルレーベルの最初のレコードというわけだ。
「君が聴いたのはこっちだろう」ジョーはレコードを取り出し、裏返してカバー紙の上に置いた。「ライフ・イズ」とタイトルされている。ルースの頭の中に、人生は言葉、人生は笑顔、人生は愛などと歌われたサビの部分が甦った。
「ビールをくれ」口の中に渇きを覚え、自分がまだ何も飲んでいないのに気付き、ピースはボソッと言った。ローラの歌声に耳を傾ける前に、軽くアルコールを入れようという思いもあった。
ジョーは、無言で、ピースの前にクアーズのボトルを置くと、恭しい儀式を執行するかのように、慎重な動作でレコード盤をターンテーブルに載せた。
レコード針が下りた瞬間の微かなノイズと音が鳴るまでの少しの間は、クラシック音楽の指揮者が、オーケストラに向けてタクトを構える時と同じ意味を持つ。聴き手の期待は最大限に膨らみ、流れてくる音を聴き逃すまいと精神を集中する、そんな瞬間だ。しかも、ローラの歌である。ピースも、ボトルに手を掛けてはいたが、ピクリとも動かさず、最初の一音を待った。
(つづく)
http://hajibura-se.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-e0...
店内の、彼女の指定席にローラは座っていた。昼間と違って濃緑色のドレスだ。細身の女性は、昼間と同じベージュのスーツの背中を見せていた。ピースにローラが挨拶すると、振り向いて、ソツのない笑顔で会釈した。
「こちらはルース。メンフィスからのお客様。彼はピース、謎の流れ者よ」
「えっ、俺はそんな風に見られてたのか」きれいな歯を見せて微笑むルースと、とぼけ顔のローラを交互に見ながら、ピースは並んで座った。
「ルースは私をスカウトに来たのよ」
「スカウト?」
ルースがにこやかに補足した。「そうなの。私はメンフィスのゴスペル・クワイアに所属してるんだけど、ローラにコーチして欲しくて頼みに来たのよ」
「へ~え、話はまとまったのかい?」
ルースは困ったような笑顔を見せた。「いいえ」
ローラは視線を外し、バーボンのグラスを傾けた。微かに音を立てる氷が、妙な間を作る。グラスを置いた後、黙ったまま、カウンターの木目をなぞり始めた。ふと、ローラの携帯が鳴った。言葉少なに答えると、携帯を畳み、カウンターに凭れかかるようにして、厨房の中のジョーを呼んだ。慌ててはいないが、表情はやや曇っていた。
ジョーが出てくると、母親の具合が悪いので帰ると言う。ルースにも謝っていた。ルースは今日泊まるつもりだったので、もう少し店に残ることにした。
「諦めた方が良いかもな」ローラが帰った後、ジョーがポツリと言った。「俺とローラは一緒に音楽をやってた。彼女の歌いたくない気持ちは解るんだ。それに今のは芝居のような気もするな。断るんならきちんと断るべきだとは俺も思う。でも彼女の性格だ。相手の方から気が付いて欲しい、身を引いて欲しいと思ってるんだ」
ローラの柔らかい物腰の陰に、強固な意志が潜んでいるのは、ルースも気付いていた。でも、そういう人物こそ、一度理解してくれれば絆は強いはずという思いもあった。
日頃はあまり飲まないが、ローラに合わせて注文したバーボンのグラスに口を付け、少し傾けた。そして、ふたりに聞かせるというより、自分の行動を振り返る事で、もう一度よく考えてみようという思いで、スカウト行為のキッカケを話し始めた。
「ある日ラジオからローラの歌声が聴こえてきたの。ソウル仕立てだったけど、ゴスペルシンガーとしての力量が伝わってきたわ。いえいえ、力量がどうこうなんて失礼ね。圧倒されるばかりだったわ。この人に目の前で歌って欲しい、ゴスペルの何たるかを教えて欲しいと思ったのよ」
ジョーが、渋面を崩さずに、食器棚の中ほどにある引き出しから、よれよれの小さな紙袋を取り出した。中身はドーナツ盤だった。点々と染みの付いた、茶色いカバー紙に収まっていた。
「奇特なヤツもいたもんだ。俺たちの曲をリクエストするなんて」
ピースとルースの間に、レコードは置かれた。カバー紙の中央の、円形の穴からレーベル部分が見えている。全体は黄色地で、黒く細い線の筆記体で「Angel」と書かれていた。「n」の字に天使が座り、その羽が「A」の字の横棒になっていた。どこかとぼけた表情の天使は、ラッパを吹いており、音符が3個ほど漂っていた。
タイトルは「レディー・エンジェル」。歌手名はローラ・ジャクソン。レコード番号がAGL-001。派手な表舞台に出る事のなかった、エンジェルレーベルの最初のレコードというわけだ。
「君が聴いたのはこっちだろう」ジョーはレコードを取り出し、裏返してカバー紙の上に置いた。「ライフ・イズ」とタイトルされている。ルースの頭の中に、人生は言葉、人生は笑顔、人生は愛などと歌われたサビの部分が甦った。
「ビールをくれ」口の中に渇きを覚え、自分がまだ何も飲んでいないのに気付き、ピースはボソッと言った。ローラの歌声に耳を傾ける前に、軽くアルコールを入れようという思いもあった。
ジョーは、無言で、ピースの前にクアーズのボトルを置くと、恭しい儀式を執行するかのように、慎重な動作でレコード盤をターンテーブルに載せた。
レコード針が下りた瞬間の微かなノイズと音が鳴るまでの少しの間は、クラシック音楽の指揮者が、オーケストラに向けてタクトを構える時と同じ意味を持つ。聴き手の期待は最大限に膨らみ、流れてくる音を聴き逃すまいと精神を集中する、そんな瞬間だ。しかも、ローラの歌である。ピースも、ボトルに手を掛けてはいたが、ピクリとも動かさず、最初の一音を待った。
(つづく)
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