【創作】悪い星の下に(1)
カクは、うたた寝の気持ち好さにとろけはじめていた。普段でも眠そうに見える顔が、一段と情けなく崩れている。思い出したように首が揺れると、安物の座椅子が短く音を立てた。
さし向かいに座っている鉄は、湯呑み茶碗に注いだ日本酒を、時々口元に持っていく。だが、味わっては飲んでいない。彼の気持ちは、折り畳んだ自分の携帯電話に向いていた。静まった部屋の中、座椅子が軋むたびに、胸の内に収めていた予感が意識に上った。
電話を待っているのは、ここ数日共通した事だが、今夜かかってくる可能性が高い。その電話は、彼の行く末を大きく変えるものだ。ただしそれは、恩人の死と引き換えにもたらされる。恩人は末期癌だった。しかし、強く生きた。力みもなければ、諦観の虜にもならず、積もった雪が徐々に融けていくように、最期の時を迎えていた。自然体で運命を受け入れる、彼らしい態度だった。
鉄はヤクザ者だ。しかし、恩人は一般人で、喫茶店のマスターだった。妙な取り合わせだが、チンピラだった鉄に、人間性を目ざめさせた人物だといえる。そのキッカケも妙だった。ふたりを繋いだのはブルースという音楽。鉄は、ほんの雨宿りのつもりで入った喫茶店で、心を騒がせる音楽に出逢い、少しずつ変わっていった。ヤクザの自分は否定されるが、運命に従う事に鉄は慣れていた。
「ジャスト・ア・リトル・ビット」のメロディーが唐突に鳴った。鉄の携帯電話だ。座椅子が一度大きく軋み、目を覚ましたカクが、不安そうに鉄を見やった。鉄は上げかけた茶碗をゆっくり下ろし、携帯を開いた。恩人の弟からだ。
「はい」
「あ、鉄さん。たった今兄が亡くなりました。穏やかな最期でした。色々お世話になりました。これから又、宜しくお願いします」
鉄は、淡々とした語り口を聞きながら、自分の頭の中が靄に包まれていくのを意識した。やがて涙が静かに頬を伝い始めた。
「ご愁傷さまです。最後のお別れに間に合うかな?」「はい、告別式は日曜のお昼になります。お迎えには行けませんが宜しく。実家は店の近くです。店に案内の貼り紙をしておきます。後の事はお会いしてから」
恩人の弟は、兄と鉄との約束が実現するよう、親身になって動いていた。鉄が恩人のマスターから頼まれていたのは、喫茶店を引き継ぐ事だった。遺言化もされている。しかし、鉄の素性は判らぬにせよ、いきなり赤の他人に店を任せるのは実家としては釈然としない。そこで、弟が経営を引き継ぎ、鉄に働いてもらう形を取った。兄と親身にしていた常連とだけ説明している。
ウィークリー・マンションも手配し、既に主な荷物は運び込んでいる。ここしばらく、身ひとつに近い状態で、子分のカクのマンションに居候していた状態だ。
「兄貴!」会話が終わったとみるや、カクは身を乗り出し、不安そうな表情を見せた。「いよいよですか」。
「ああ。明日親父さんに挨拶に行く。お前にも世話になったな」いつも余計な事ばかり喋り、鉄にたしなめられているカクが無言で俯いている。
ふたりが所属する組はやがて消滅する。組長の息子が営む不動産業が軌道に乗り始めているのだ。今、鉄が組を離れれば、“親父さん”の決断は早まるだろう。不器用なカクは真っ当な勤めに自信がない。鉄の運命を変える電話は、カクの人生にも及ぶ問題なのだ。
それ以前に、カクにとって鉄は任侠の手本である。田舎に帰って喫茶店を開くと聞いた時は、足元がすくんだ。次第に、鉄の人生を左右する男の大きさを感じるようになったが、それは自分を納得させようという意識からだった。日に日にカクの気持ちは萎んでゆく。鉄はそれが判っていながら、今後のカクの為に距離を置いた。同時にそれは自分の為でもあった。
(つづく)
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