2023年7月10日(月)レビューと評論精神
断続的に激しい雨。近県の福岡や大分の被害が重大との事で、早く落ち着いてほしい。
朝食は、デニッシュパンとインスタントコーヒー。
時々雨に濡れながら、銀行とショッピングセンターと書店とヨメ実家へ。この雨続きで良かったのは、車がすっかり洗われた事ぐらいだ。
お昼は、松花堂弁当。
昨日の日記で、音楽評論家より音楽ライターという呼称が今の時代に合っていると書いた。付け加えれば「評論」も「レビュー」と呼ばれる事が多いようだ。これはどんなジャンルにでも使われている。もはや「評論」という言葉が消え去りつつあるのだろうか。言葉の変化は止むを得ない部分もあるが、使う側が「評論精神」を疎かにしてはダメだと思う。つまり、横文字より日本語使いの方が心には響くのではと思っている。絶対日本語で表現しろと言うのではなく、日本語で理解しろという事だ。日本語を噛みしめろと言っても良い。肯定、否定、好き、嫌いで終わらず、自分の感性をしっかり使い、作品の魅力を伝える。そこには(日本人なら)日本語に対する感性がどうしても必要だ。
上の段落に上手く収めきれない思いがひとつ。あるギタリストが延々とソロを奏でているのを聴いて、自己陶酔と批判するか、感情の迸りと絶賛するか人それぞれだと思う。そのギタリストが好きか嫌いか、どういう人物か深く知っているのかいないのか、リフ中心のギタープレイ以外はそもそも萌えないとかの特定の理由を持つのか、ライターの特徴を知る事で聴く者は判断する場合もある。いや、これまではそうだった。しかし、今や大抵の音は自由に聴ける。こういう時代の「評論」はその存在価値さえおぼつかない。書く側が深く掘り下げても、聴く者が、あれこれ聴く事で他人の意見に耳を傾けるまでもないと、思いを止める可能性が出てくるのではと思うのだ。
どうも頭がこんがらがってしまった。要するに、YouTubeが無かった時代は、文章を読んで聴いた事のない音楽に思いを馳せていた。その感覚が薄れていくのが寂しいだけかも知れない。
夕食は、麻婆春雨、シマアジの刺し身、ひき肉と春雨の揚げ包み、ピーマン炒めかつお節乗せ、トマト。
我が家の乾燥除湿機がリコール対象だそうで、明日電話して詳しく聞こうかと思っているところ。
バイトのマニュアル届く。またしても熟読の日々が続く。
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