【追悼】忌野清志郎・・・人生詩人としてのロックスター
この記事を書く段になり「忌」という字を改めて見たら、「己」と「心」で出来ているのに気付きました。「心」が「己」の基盤になっている・・・これは勿論たまたまの事でしょうが、この文字が清志郎さんの人と成りを表している気がするのです。
ロックスターにはカリスマ性と大衆性のバランスが必要だと思います。憧れの対象であると同時に、優れたエンターテインメント精神、更に気軽に声をかけられそうな親しみ安さを感じられる存在の人が結局リスペクトされていると思います(清志郎さんとも呼べるしキヨシローとも呼べるのです)・・・清志郎さんは今更言うまでもなく、とても心根の優しい人で紡ぎ出される詞の世界にも、温かい人間性を感じます。それに、基本的に何をやってもユーモアを感じます。コテコテの化粧をして髪をツンツン立てて、ステージで吼えて跳び回っても、どこか隣のお兄ちゃん的な気安さを感じます。歌い方もカッコ好さと面白みを感じます。明るいんですよね。切ない歌でも暗くならずに、聴いていて力が湧いてくるようなものがあります。私はかねがね「切なさ」は人間に必要な感情だと思っています。生きていく上での推進力の一つと認識しています。清志郎さんは歌の世界、詞の世界、自分自身の存在で、それをサラッと証明しています。正に稀有なロックスターでしょう。
私の好きなRCサクセションの歌に「トランジスタ・ラジオ」があります。ここに歌われている“イメージ”がとても好きなのです。特に我々のようにラジオから流れてくる音楽をとても楽しみに聴いていた世代には“解る”部分があります。また、授業をサボってタバコふかしながら屋上に寝転びトランジスタラジオを聴いている、主人公の自由な精神はどんな世代にも通じると思います。
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「ぼくの好きな先生」に登場する先生も、自由人(というか人間本来の姿)です。「オジサン」という呼び名も不自然ではありません。
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「先生」も固定観念に捉われそうな、というか周りが(社会が)固定観念を持ちたがる存在ですが「サラリーマン」という言葉のイメージも大衆に埋没した印象があります。清志郎さんはサラリーマンの悲哀、というこれも固定観念になっている“イメージ”なんぞは軽く飛び越し、ストレートな言葉で人間の生き様を歌っています。これは是非サビの部分まで聴いて下さい。サラリーマンだけでなく人間全体に呼びかけているというのがよく解ります。
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ストレートな言葉といえば、タイマーズでの過激な活動も、歌詞をよく聴くと極めて真っ当な言葉で綴られています。表現をオブラートに包まない清志郎さんのスタイルがここでも貫かれています。
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RCサクセション後の音楽活動について私は多くを知りません。最後のアルバムは2006年、療養に向かう前にナッシュヴィルで録音されたそうです。彼の音楽的ルーツの一つであるスタックスサウンドの要、スティーヴ・クロッパーがプロデュース、盟友チャボや細野晴臣さんが参加しています。行き着くべき所に行き着いたのでしょうか・・・いや、これからの清志郎さかの歩む道がほの見えていた布陣のような気もします。
最後に私の特に好きな歌をもう一曲。恋人と別れた男性の歌ですが、この切ないシチュエーションでは並みのアーティストなら悲恋の哀しみを表すに止まるでしょうが、明るく力強い音楽になっています。登場人物の人格化が成されているのもありますが、リアルな切なさ、リアルな言葉、リアルな人生が歌に自然に表われているからだと思います。
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